2011年8月3日水曜日

決壊

大抵、海外出張からの帰りは、用務が終了した解放感も手伝って、日頃なかなか手を伸ばすことのできない小説の文庫本をついつい読んでしまう。今回の中国からの帰りは、少し前に買って放置したままにしていた平野啓一郎の「決壊」。ちょうど自宅までの電車の中で前篇を読み、その後、一気に後篇を読んでしまったら、年甲斐もなく夜更かしをしてしまい、今日は猛烈つらい。もちろんそのつらさは、救いようのない読後も手伝っている。やれやれ前期の自転車操業も終わった、さて小説でも読んで一息つこうというときに読む本ではどうもなかったらしい。後編の中頃から事態が急展開し、一部始終が収められたDVDのところはつらくて泣けてきたのだが、その後もゆるやかにそして確実に「決壊」が止まらない展開にはかなり気が滅入った。全く希望が見いだせないというのは、著者なりの結論であり、もしかしたら著者は読者に希望とは何かを思考してほしいと願っているのかもしれない。しかし私が年をとったせいなのか、それとも甘えているのか、そのあたりはよくわからないが、もうちょっと何か希望を残すようなラストにはならなかったのだろうか。

読後、カミュの「異邦人」を2002年頃の日本の社会状況や文脈に落とし込めたらこういった話になるのだろうかという気もしたのだが、決定的に違う点はいくつかある。そのうちの1つは、システムから逸脱することの意味について。「決壊」では、システムからの逸脱をいわばシステムエラーと定義付け、その点に犯罪を外的帰属させ、犯罪を正当化する意味合いが色濃いように思えたのだが、エラー即犯罪というのはやや短絡すぎる気がする。逸脱の結果としての「自由」という側面に、何か希望は見いだせないのだろうか。心理学者の夢想と揶揄されそうだが。もう1つは、幸せについて。幸せのパイにありつけるかどうかは、「決壊」の言葉を借りれば、遺伝と環境によって先天的に決まっていて、最もそうした幸せのパイから遠い者が逸脱者としての道を歩むことになる。で、その幸せとは何なのだろうか。もしかしたら逸脱することによって殺人というなすべきことを手に入れることは幸せなのかもしれないし、言葉に言葉を重ねて、非常に限定的に他者を気持ちよくさせ、その結果得られる関係そのものに幸せを感じるかもしれない。が、「決壊」の後味悪さを忘れて、幸せとは何かをこの本は扱いたいのだという目で見つめ直すと、結局のところそこでの幸せとは極めて日本的な家族の団欒につきる。惨殺される良介の最期の刹那こそ "The champion of the world"であり、そしてそれを失ったものやそういった術をもたないものは「決壊」していくしかないのかもしれない。それ故、言葉に言葉を重ね、その言葉にがんじがらめにされていることを自覚している崇の辿る道は、前編で暗示されている通りなのだが、それがわかっていても、後味が悪いのは変わらない。

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