2011年3月26日土曜日

大震災

東京に向かう新幹線の中で時間があるので、標記の件が発生して以来つらつら思っていたことを書きだします。もしかしたら不謹慎な内容も含んでしまうかもしれませんが、個人的な感想としてそのあたりは大目に見て下さい。

神戸に住んでようやく1年ちょっとが経ちました。近所の六甲道周辺は、阪神大震災で甚大な被害をうけた地域の1つですが、街はきれいに整備され、高層マンションも目立ちます。ただ、引っ越して間もない頃は、六甲道から自宅へと歩いていくその途中でそうした街並みを眺めると、建物や道路がめちゃめちゃになり、しかも方々から火の手があがっている当時の映像から勝手にこの街がどのように震災でやられてしまったかを想像し、この整備された街並みの背後に地震による幾多の屍があり、そしてそうであるにもかかわらずこの街並みがそんなことなどなかったかのように見せている(少なくとも私にはそう見える)ことの不安感、そしてその地震をこの神戸で経験していない、それ故に一種の共通感覚がないことからの疎外感を覚えたものです。

この不安感と疎外感は、私が当事者ではなく、むしろいろいろと想像するからこそ生まれるものであり、それゆえ、具体的な内容の性質と強度は大きく異なりますが、今回の地震に対しても同様の感覚を覚えます。

ではどういったところでそれらの感覚が今回の地震では異なるのか。1つは、被害の規模があまりにも大きく、それが日本という国の将来に大きな影を落とすことに対する不安感、もう1つは、こうした事態に何も活かせない自らの職業の専門性に帰因する疎外感です。

実は地震発生時、同僚とともに「研究とカリスマ性」という与太話を暗澹たる気分になりながらかなり真剣に話していて、お恥ずかしいことに地震にすら気づきませんでした。しかし我々が話していた内容は、研究という文脈を取っ払ってしまえば、国レベルにもあてはまる問題でした。なぜこうもリーダーは出てこないのか、突き詰めればそのことによる不安感です。

まさに阪神大震災に見舞われた頃、私はカミュが大好きで、よく彼の小説を読みました。その作品の1つに「ペスト」があります。読み返していないのでおおかた内容は忘れてしまいましたが、当時はその本が説く、いわば個々人の「反抗」による「連帯」というメッセージに大きくひかれました。無論、そうした考え方の根っこにある個人主義、さらにはそうした考えが究極的には個人の来歴とそれによる人の行動への影響を否定するものであることを踏まえると、その考えを無条件で受け入れることには抵抗があります。ただリーダー不在の不安感を乗り越えるには、まさに個々人の「反抗」と、その結果としての「連帯」がカギになると思っています。

・・・新幹線の車中、このあたりまでつらつら書いたのですが、この後のことがうまく書けず、東京滞在中も放置して、神戸に戻ってきて今に至っています。あまりにだらしないのと、学部生の頃に築いた信念がいろいろ揺らいでいるので、ペストを読みなおして、いろいろと考えてみます。

で、もう1つの疎外感について。少なくとも現在の段階で、私の職種をもってして、その専門性を活かして被災地や被災された方に実用的な何かを提供することは残念ながらほぼ無理です。寄付や救援物資の提供以外に今のところ私ができることはありません。この無力さは、この世の中に全く役立たないことによる疎外感を私自身に生み出しています。この点、本当にもどかしさを感じますが、日本は今後この震災の後遺症と長期戦で向き合っていかなければならないことを考えると、幸いにして被害を受けていないものとしては、今までどおりに仕事をし、生活をし、この日本という国を微々たる力で支えること、そして研究者としては、現在起きていることを理解し、自分の頭で考え、それを日本という社会・文化の特質の理解(とその今後の展望)に還元していくことしかできません。

長期戦である以上、研究・教育を飯の種としている人間としては、今回の被災によって同業者の教育・研究活動がままならないということに心を痛めるとともに、そのことによって生じるさまざまな困難を少しでも引き受けることはできないかと考えます。我々の業種は特殊な器具を必要としませんから、被災による影響は少ないのかもしれませんが、逆にいえば、そういった制約がないゆえに、例えば、こちらで実験や調査を代行したり、論文の執筆に集中できる環境を提供したりすることは容易にできるかと思います。またそれによって、何か新しいコラボレーションの機会も生まれるかもしれません。おそらく今はそれどころではないと思いますが、もう少し時間が経ち、そういった必要性が出てきたら、遠慮なく声をかけてもらえれば、多少は助けになることはできると思います。