2011年12月18日日曜日

今期の心理学特殊講義

学部生向けの「心理学特殊講義」で、今期は文化心理学を教えています。個人的な趣味で、認知・感情のボリュームが多いですが、以下のページからレジュメや学生の一部のコメントに対する私のレスを見ることができます。この内容を通じて、もう少し文化の研究に興味を持ってくれる人が増えてくれればいいなあと思うのですが、いろいろ力不足なので、なかなかうまくいきませんね。

「心理学特殊講義」(月2)

2011年10月13日木曜日

ザ・インタビューズ

ザ・インタビューズの存在を知人に教えてもらいました。流行っているらしいので、試しにページを作ってみました。よろしかったら、質問してみて下さい。

ishiikのインタビュー

2011年10月11日火曜日

Steve Jobsの死

Steve Jobsが死んだ。大学生になって初めて買ったコンピュータはMacintoshで、それなくしては実験も分析もできない状態が続いたことを懐かしく思い出す。今でこそAppleとの接点はiPhoneぐらいしかないけど、それでもそのiPhoneは実験参加者との待ち合わせで活躍している(もっと活躍の場はあるはずなのに、残念ながら使いこなせていない)。Think differentというフレーズは、文法なんてくそくらえって感じで、昔からとても気に入っている。そんなこんなで、Steve Jobsの死にはそれなりに驚いたし、がっかりもしたが、しかしニュースで見た銀座のアップルストアの映像や街の人へのインタビューにやや興ざめしてしまったのも事実である。そんな中、以下の「Steve Jobsの思い出」というブログを読んだのだけど、この内容は実に興味深い。一気にJobsへの親近感がわいた。彼のスピーチをもじれば、Stay crazyといった感じか。

まつひろのガレージライフ「Steve Jobsの思い出」

追記。大隅先生のこのブログで書かれていることも実にいい。
大隅典子の仙台通信「Stay foolish, stay stupid 」

2011年8月25日木曜日

発表予定

以下の学会で発表します。

・日本感情心理学会第19回・日本パーソナリティ心理学会第20回合同大会(京都光華女子大学)
大会準備委員会企画シンポジウム「日本人と心理療法―感情をとりまく遺伝子・脳・身体・文化―」(話題提供)

・日本心理学会第75回大会(日本大学)
ワークショップ「多感覚コミュニケーション機能の発達と文化・言語による特殊化」(話題提供)
ワークショップ「文化比較で知りたいこと・わかること―認知心理学研究における比較文化アプローチの役割―」(指定討論)

これに加えて、筑波大学(8/30-31)と広島修道大学(9/5-8)で集中講義があります。関係者の皆様、何卒よろしくお願いいたします。

2011年8月22日月曜日

彷徨う

先週末、陸前高田に行って、草取りと瓦礫の撤去をしてきた。もちろん私のやったことなんて小指の爪の垢にも満たないことだし、たかだがある地域にほんの一瞬足をおいたところで何もわかりはしないのだが、それでも何もしないよりはわずかでも行って見て感じたことに意義はあったと思う。本音を言えば、時間と体力が許す限り、何度か足を運びたい。そして、遠方なので行くのにお金がかかるというのがネックとはいえ、どう考えても忙しいというのは幻想にすぎない大学生こそ足を運んでくれたらと思う。そのお金で経験を買うという動機で十分だと思う。そういったことに従事することは、上辺では「援助する」立場なのだが、実際そこで得られる経験によっていろいろなことを学ぶことは、結果的に自ら「援助される」ことになる。自分が大学生や院生だったときのことを思い出しても、その点は自信を持って言える。

自分が人生をかけて知りたいことが、結果的に世の中の人々の助けになれば、それほどの幸せはないと思う。その点に究極の幸福を求めるのであれば、残念なことに私は決して幸福になれない。そもそも自分が人生をかけて知りたいことを追究できるような職についていることはどう考えても幸せに値するし、私自身もそれに異論はない。ただそれでも心の片隅で世の中の役に立たないことへの一種の虚しさを感じるときがあるのも事実である。今では、年をとって、自分をごまかし、正当化するという一種の対処法を身に着けたものの、学生だったときはいわばその2つの間でいろいろ彷徨い、世の中でいうところのボランティアの末端として現場で身を投じるしか、自分の中でバランスをとることができなかったのを思い出す。

今から思えば、もう少しその時間に勉強をしておけば、多少はまともな英文も書けるようになったに違いないし、この論理性のなさもやや改善されたはずだし、世の中の助けといっても、それは私が定義するものではなく、相手が評価することであって、どうにもならないのだが、それでもそうやって彷徨ったことで、無知な自分が得る何かがあったと信じたい。そして自分の職務を踏まえれば、週末に論文の1ページでも書き進めるか、学会発表のパワポの準備をすべきところを、懲りもせず未だについつい彷徨ってしまうのも、おそらくそういった何かを信じたいからなんだと思う。

蛇足だが、言葉に言葉を重ねれば重ねるほど、セルフ・ハンディキャッピングとしか人は思わないだろうなと思ってしまうこの感覚は一体何なんだろうか。それだけ満足な仕事ができていないことに対する自らへの欲求不満が溜まっている証拠だ。もうやめよう。

(蛇足の蛇足。ふと「フィールドワークへの挑戦―“実践”人類学入門」という本を思い出した。当時、私は自らのこの彷徨いをしたためて、文化人類学のレポートとして提出したことがある。そしてそれから約10年後、北大の別の学部の某先生から、ぜひこの本での経験について話してほしいと言われて、えらくびっくりした。そんな本の一部として紹介されているとは全く知らなかったからだ。そしてその経験について話してみたものの、論理的思考の訓練をうけているはずの研究者でありながら、単なる素人の経験談の域を得ない自分に恥じた。一時期、文化人類学の研究者に憧れたことがあるが、ほとほとそのセンスがないことを実感したのだった。)

2011年8月11日木曜日

公開講座

今年度の神戸大学文学部の公開講座で1回トークします。ちょっと自分の研究と離れたネタなので、やや不安ではありますが・・・。

平成23年度神戸大学文学部公開講座「日本社会と大災害-古代・中世から3.11大震災まで」

2011年8月10日水曜日

長崎




科学技術に絶対はない。だからこそそのリスクを最小限にするような防御策をとらなければならない。想定外という言葉は言い訳である。そうした言い訳がまかり通るとしたら、それは核の災禍を受けた国であるにもかかわらず、それを完璧に平和利用できると慢心してきたからではないだろうか。さらには、核の災禍を受けた国で生活しようとも、この時期に放映されるドキュメンタリーやドラマは単なるテレビ局のルーチンワークで、結局のところどんな災禍があったかなんて、耳から耳に通り抜けていたからではないだろうか。

東日本大震災以後、原発についてつらつら考えることがあったが、ある時ふと広島と長崎の原爆についてよく知らないことに気づき、猛烈に自分を恥じた。そしてようやく諸々のことが一段落したので、生まれて初めて長崎に行き、原爆資料館に足を運んだ。精神の高ぶりのため、その晩はとても眠りが浅かった。それだけショックだったということだ。

2011年8月3日水曜日

ISRE&AASP

7月末に2つの学会に参加し、発表をしてきました。



まずは、京都ガーデンパレスで開催されたISRE (International Society for Research on Emotion)。後述のAASPと重なってしまった上に、前週の台風に伴う暴風警報で授業が飛んでしまった分を片付けざるをえなく、自分が発表したセッション以外、研究発表をほとんど聴くことができませんでした。それでも阪大の石黒先生のアンドロイドの話を初めて生で聴くことができ、しかも実際に遠隔操作されたアンドロイドとインタラクションできる機会に恵まれ、これはとてもよかったです。ただ、石黒先生の話は、最後、人間としてのミニマムデザインをもったアンドロイドの話になり、これをいとおしそうに抱えたお年寄りの姿が映し出されたのですが、ちょっとこれは皮肉めいたエンディングのようにも思えました。人間としての容姿が大切であるという前提で話を進め、いかに不気味の谷を超えるかという点も含め、人間の体の動きや顔の動かし方の自然さを追求しているにもかかわらず、結局のところ対称性を確保したシンプルなデザインに行きつくというのは、もちろんそれ自体成果の1つですが、ただ、じゃあそれまでの話における執拗なまでの人間らしさの追求とは一体何だったのかという問いがつい浮かんでしまいます。



次は中国・昆明で開催されたAASP (Asian Association of Social Psychology)。実はこの学会に参加するのはかれこれ10年以上ぶりです。今回、The Michael Harris Bond Awardというのを頂くことになりまして、Invited Addressの一部として、昔やったStroopの話から最近の笑顔の消失の話まで、これまでの研究の一部を話す機会に恵まれました。行きの昆明空港からのタクシーでコンタクトレンズをなくすというハプニングもありましたが、アジア人として文化心理学を牽引している、Yingyi Hong、Kaiping Peng、Eunkook Suhらの話を聴くことができ、知人の研究をキャッチアップできたのはよかったです。特にYingyiやCY Chiuらの学生は、香港やシンガポールをバックグランドにしていることもあり、英語ができるので、感心した半面、正直なところ日本の研究者もどんどん発信していかないと、本当勝ち目ないなあという危惧も感じました。無論自戒を込めてですが、たとえ「たかが」と思っても、そこで存在感を示さない限り、どこからも相手にされないんじゃないでしょうかね。

決壊

大抵、海外出張からの帰りは、用務が終了した解放感も手伝って、日頃なかなか手を伸ばすことのできない小説の文庫本をついつい読んでしまう。今回の中国からの帰りは、少し前に買って放置したままにしていた平野啓一郎の「決壊」。ちょうど自宅までの電車の中で前篇を読み、その後、一気に後篇を読んでしまったら、年甲斐もなく夜更かしをしてしまい、今日は猛烈つらい。もちろんそのつらさは、救いようのない読後も手伝っている。やれやれ前期の自転車操業も終わった、さて小説でも読んで一息つこうというときに読む本ではどうもなかったらしい。後編の中頃から事態が急展開し、一部始終が収められたDVDのところはつらくて泣けてきたのだが、その後もゆるやかにそして確実に「決壊」が止まらない展開にはかなり気が滅入った。全く希望が見いだせないというのは、著者なりの結論であり、もしかしたら著者は読者に希望とは何かを思考してほしいと願っているのかもしれない。しかし私が年をとったせいなのか、それとも甘えているのか、そのあたりはよくわからないが、もうちょっと何か希望を残すようなラストにはならなかったのだろうか。

読後、カミュの「異邦人」を2002年頃の日本の社会状況や文脈に落とし込めたらこういった話になるのだろうかという気もしたのだが、決定的に違う点はいくつかある。そのうちの1つは、システムから逸脱することの意味について。「決壊」では、システムからの逸脱をいわばシステムエラーと定義付け、その点に犯罪を外的帰属させ、犯罪を正当化する意味合いが色濃いように思えたのだが、エラー即犯罪というのはやや短絡すぎる気がする。逸脱の結果としての「自由」という側面に、何か希望は見いだせないのだろうか。心理学者の夢想と揶揄されそうだが。もう1つは、幸せについて。幸せのパイにありつけるかどうかは、「決壊」の言葉を借りれば、遺伝と環境によって先天的に決まっていて、最もそうした幸せのパイから遠い者が逸脱者としての道を歩むことになる。で、その幸せとは何なのだろうか。もしかしたら逸脱することによって殺人というなすべきことを手に入れることは幸せなのかもしれないし、言葉に言葉を重ねて、非常に限定的に他者を気持ちよくさせ、その結果得られる関係そのものに幸せを感じるかもしれない。が、「決壊」の後味悪さを忘れて、幸せとは何かをこの本は扱いたいのだという目で見つめ直すと、結局のところそこでの幸せとは極めて日本的な家族の団欒につきる。惨殺される良介の最期の刹那こそ "The champion of the world"であり、そしてそれを失ったものやそういった術をもたないものは「決壊」していくしかないのかもしれない。それ故、言葉に言葉を重ね、その言葉にがんじがらめにされていることを自覚している崇の辿る道は、前編で暗示されている通りなのだが、それがわかっていても、後味が悪いのは変わらない。

2011年6月30日木曜日

講演会のお知らせ

共同研究の打ち合わせを兼ねて、以下のようなトークをセッティングしてみました。お時間が合うようでしたら、ぜひご参加下さい。

日時:7月11日(月)午後3時半~4時半
場所:神戸大学文学部B棟231室
話者:Jon Freeman (Ph.D. Candidate, Tufts University; his webpage:
http://www.jbfreeman.net/start.htm)
タイトル、概要:

"The Dynamic Interactive Nature of Real-Time Person Perception"

Perceivers are bombarded by other people’s multiple characteristics
(e.g., sex, race, age) and the sight of their face and sound of their
voice simultaneously. Perceivers also bring a great deal of prior
stereotypic expectations and high-level cognitive states (e.g.,
motivations, prejudice) to the person perception process. How, then,
do all these information sources rapidly conspire to arrive at a focal
perception in just fractions of a second? I will discuss integrative
research using computer mouse-tracking, neuroimaging, and
event-related brain potentials to understand the cognitive and neural
basis of this uniquely rich person perception process. Based on
converging findings, I will present a theory of person perception that
emphasizes its dynamic and interactive nature, and I will capture my
theoretical claims with a computational neural-network model. This
framework understands perceptions of other people as dynamically
evolving over hundreds of milliseconds―while competing with other
possible perceptions―in a mutually constraining interaction with
multiple information sources (e.g., visual face/body processing,
auditory voice processing, stereotypes, high-level cognitive states)
that stabilizes over time. One feature of this dynamic interactive
processing is the ability to take the natural diversity in other
people's sensory information and slot it into rigid social categories
(e.g., male or female). I will present research identifying the neural
mechanisms involved in this kind of categorical transformation, as
well as how these neural mechanisms flexibly interact with top-down
prior knowledge about other people. The implications of the dynamic
and interactive nature of person perception will be discussed.

2011年6月23日木曜日

9勝6敗

阿佐田哲也が言うところの「9勝6敗を狙え」ほど、的を射た人生訓はない。とはいえ、たまたま勝ちが続いてしまったせいか、つまずいていくつかの連敗をし、今は完全に自分の流れではないことを悟るのは、本当つらい。いらない負けをしないよう我慢するのがいいのはわかっているものの、結果的に我慢できていない。というか我慢できない状況に(主観的に)追い込まれているのかもしれない。こういうとき、いつのまにやら自分が上の人間になってしまい、何もしないという選択ができにくくなっていることを思い知る。

まあ最終的には「達観」に至るのだけど、人間としてできていないのでなかなかそれまでの時間がかかる。さくっと達観できるようなオトナになりたい。というか、オトナだったらこんなことをぐだぐだ書かないか。

2011年6月9日木曜日

大学院オープンキャンパス

神戸大学大学院人文学研究科のオープンキャンパスが、7月6日(水)午後3時から開催されます。詳細は、こちらをご覧下さい。

まさしく家内制手工業の現状ですが、私とともに、
・さまざまな文化に自ら乗り込み、貪欲に実証データを収集(アームチェアーには座らない)
・シンプルかつイノベーティブで、どこでも誰でもできるタスクの開発と利用
の2点に情熱を捧げて、世界へ発信していきたいという方、ぜひ一緒に研究活動をしませんか!

(注意:私は「最終的に気合いこそがモノをいう」という古典的な信念を持っています。これについていけそうにない方は、お互いの相性が合わないと思うので、申し訳ありませんがご遠慮下さい。)

2011年6月6日月曜日

書評

少し前、今井むつみ先生の「ことばと思考」の書評を苦しみながら書いたのですが、それが掲載された「認知科学」誌が今日手元に届きました。この領域の知見をキャッチアップするのに実に優れた本です。興味のある方は、ぜひご一読を。

2011年6月5日日曜日

twitter

twitterを一昨年の9月からやっていたのだけど、この5月末でやめた。過去のつぶやきをさらしたまま放置するのもどうかと思い、すぱっとアカウントそのものを削除した。大した理由はないのだけど、強いて言えば以下の2つ。

・twitterのおかげでさまざまな情報を得ることのメリットがあったものの、ここんところそれを上回るデメリットばかり目について、どうもそのデメリットに振り回されることも多く、そのせいで集中して仕事ができないことが続いたため。

・速報的に情報を垂れ流すことができる媒体故に、おそらく一息おいて少し冷静になったら心の奥底に沈め込まれるはずのものまでついつぶやいてしまうことがあり、その内容(唯我独尊的な意味合いを含む正論)によって誤解を招き、それによって疑心暗鬼になることもあれば、そもそも一息おいて我慢できない自分のへたれ具合に嫌気がさすことがあり、これらが自分の精神衛生上、あまりよくなかったため。

twitterのアカウントを削除した翌日は、大げさに言えば、自分が死んだ世界を遠くから眺めると、私の死なんか何もインパクトを持たず、その世界は何事もなかったかのように続いているというような錯覚を覚えた。どうもなんだかんだ言って、かなりtwitterにのめりこんでいたらしい。まあ私は、鉱脈をひたすら掘り返す毎日で、その裏を返せば孤独死予備軍だから、ある意味、そのいい予行練習だったのかも。

2011年5月7日土曜日

Michigan visit



4月16日にミシガン大学で開催されたCenter for Culture, Mind, and the Brain Annual Conferenceに参加し、ありがたいことに最近行った研究をトークする機会に恵まれました。諸事情のため、3年ぶりにアナーバーを訪問したにもかかわらず、1日ちょっとしか滞在できませんでしたが、いろいろ刺激をうけました。今の状況ではこの方面に切り込んでいくことはなかなか難しいですが、それでもできることを1つずつ積み重ねていこうと思います。

2011年4月24日日曜日

授業

昨年同様、心理学演習の授業は英語を読ませることが1つの目的になっているので、今年は以下の本(手前味噌も含まれる)+Henrich, Heine, & NorenzayanのWeird論文をやる予定。ハンドリングが難しそうだけど、マンネリはおもしろくないので、昨年同様ちょっと背伸びしてみています。

石井・結城(編訳)「名誉と暴力」[Amazon]
Richerson & Boyd "Not by Genes Alone: How Culture Transformed Human Evolution" [Amazon]

2011年3月26日土曜日

大震災

東京に向かう新幹線の中で時間があるので、標記の件が発生して以来つらつら思っていたことを書きだします。もしかしたら不謹慎な内容も含んでしまうかもしれませんが、個人的な感想としてそのあたりは大目に見て下さい。

神戸に住んでようやく1年ちょっとが経ちました。近所の六甲道周辺は、阪神大震災で甚大な被害をうけた地域の1つですが、街はきれいに整備され、高層マンションも目立ちます。ただ、引っ越して間もない頃は、六甲道から自宅へと歩いていくその途中でそうした街並みを眺めると、建物や道路がめちゃめちゃになり、しかも方々から火の手があがっている当時の映像から勝手にこの街がどのように震災でやられてしまったかを想像し、この整備された街並みの背後に地震による幾多の屍があり、そしてそうであるにもかかわらずこの街並みがそんなことなどなかったかのように見せている(少なくとも私にはそう見える)ことの不安感、そしてその地震をこの神戸で経験していない、それ故に一種の共通感覚がないことからの疎外感を覚えたものです。

この不安感と疎外感は、私が当事者ではなく、むしろいろいろと想像するからこそ生まれるものであり、それゆえ、具体的な内容の性質と強度は大きく異なりますが、今回の地震に対しても同様の感覚を覚えます。

ではどういったところでそれらの感覚が今回の地震では異なるのか。1つは、被害の規模があまりにも大きく、それが日本という国の将来に大きな影を落とすことに対する不安感、もう1つは、こうした事態に何も活かせない自らの職業の専門性に帰因する疎外感です。

実は地震発生時、同僚とともに「研究とカリスマ性」という与太話を暗澹たる気分になりながらかなり真剣に話していて、お恥ずかしいことに地震にすら気づきませんでした。しかし我々が話していた内容は、研究という文脈を取っ払ってしまえば、国レベルにもあてはまる問題でした。なぜこうもリーダーは出てこないのか、突き詰めればそのことによる不安感です。

まさに阪神大震災に見舞われた頃、私はカミュが大好きで、よく彼の小説を読みました。その作品の1つに「ペスト」があります。読み返していないのでおおかた内容は忘れてしまいましたが、当時はその本が説く、いわば個々人の「反抗」による「連帯」というメッセージに大きくひかれました。無論、そうした考え方の根っこにある個人主義、さらにはそうした考えが究極的には個人の来歴とそれによる人の行動への影響を否定するものであることを踏まえると、その考えを無条件で受け入れることには抵抗があります。ただリーダー不在の不安感を乗り越えるには、まさに個々人の「反抗」と、その結果としての「連帯」がカギになると思っています。

・・・新幹線の車中、このあたりまでつらつら書いたのですが、この後のことがうまく書けず、東京滞在中も放置して、神戸に戻ってきて今に至っています。あまりにだらしないのと、学部生の頃に築いた信念がいろいろ揺らいでいるので、ペストを読みなおして、いろいろと考えてみます。

で、もう1つの疎外感について。少なくとも現在の段階で、私の職種をもってして、その専門性を活かして被災地や被災された方に実用的な何かを提供することは残念ながらほぼ無理です。寄付や救援物資の提供以外に今のところ私ができることはありません。この無力さは、この世の中に全く役立たないことによる疎外感を私自身に生み出しています。この点、本当にもどかしさを感じますが、日本は今後この震災の後遺症と長期戦で向き合っていかなければならないことを考えると、幸いにして被害を受けていないものとしては、今までどおりに仕事をし、生活をし、この日本という国を微々たる力で支えること、そして研究者としては、現在起きていることを理解し、自分の頭で考え、それを日本という社会・文化の特質の理解(とその今後の展望)に還元していくことしかできません。

長期戦である以上、研究・教育を飯の種としている人間としては、今回の被災によって同業者の教育・研究活動がままならないということに心を痛めるとともに、そのことによって生じるさまざまな困難を少しでも引き受けることはできないかと考えます。我々の業種は特殊な器具を必要としませんから、被災による影響は少ないのかもしれませんが、逆にいえば、そういった制約がないゆえに、例えば、こちらで実験や調査を代行したり、論文の執筆に集中できる環境を提供したりすることは容易にできるかと思います。またそれによって、何か新しいコラボレーションの機会も生まれるかもしれません。おそらく今はそれどころではないと思いますが、もう少し時間が経ち、そういった必要性が出てきたら、遠慮なく声をかけてもらえれば、多少は助けになることはできると思います。

2011年1月26日水曜日

Accept

新年が明けてうっかりしていたらもう1月も終わり・・・いやまだ5日あるっていう感じでしょうか。今年もよろしくお願いします。

twitterではつぶやいてしまったのですが、新年早々、論文が1つアクセプトされました。2006年の夏に北大に再び戻り、翌年、院生を初めてもったのですが、そのときに一緒にやりだした研究だったため、今回は特に感慨深いです。

Ishii, K., Miyamoto, Y., Niedenthal, P. M., & Mayama, K. (accepted). When your smile fades away: Cultural differences in sensitivity to the disappearance of smiles. Social Psychological and Personality Science.

論文の内容を単純に紹介すると、KYという言葉が少し前もてはやされましたが、日本では相手の期待に沿って、それに合わせることが求められやすいため、人々はそれがうまくいっているかどうかのシグナルに対して敏感に判断しやすいと考えられます。そのシグナルの1つとして、この研究では他者の笑顔の消失に注目しました。相手の笑顔が消えていくというのは、その場において適切な行動をしていないことのシグナルとして日本で機能しているのであれば、アメリカ人と比較した場合、日本人は特にそういった刺激に対して敏感に判断する、つまり笑顔が消えたと非常に早く判断すると考えられます。結果はこうした予測を支持するものでした。またこうした文化差は、アタッチメントに関する不安の程度によっても媒介されることもわかりました。

さて、SPSPに行ってきます。友人に会えるのを楽しみにしています。