2011年8月22日月曜日

彷徨う

先週末、陸前高田に行って、草取りと瓦礫の撤去をしてきた。もちろん私のやったことなんて小指の爪の垢にも満たないことだし、たかだがある地域にほんの一瞬足をおいたところで何もわかりはしないのだが、それでも何もしないよりはわずかでも行って見て感じたことに意義はあったと思う。本音を言えば、時間と体力が許す限り、何度か足を運びたい。そして、遠方なので行くのにお金がかかるというのがネックとはいえ、どう考えても忙しいというのは幻想にすぎない大学生こそ足を運んでくれたらと思う。そのお金で経験を買うという動機で十分だと思う。そういったことに従事することは、上辺では「援助する」立場なのだが、実際そこで得られる経験によっていろいろなことを学ぶことは、結果的に自ら「援助される」ことになる。自分が大学生や院生だったときのことを思い出しても、その点は自信を持って言える。

自分が人生をかけて知りたいことが、結果的に世の中の人々の助けになれば、それほどの幸せはないと思う。その点に究極の幸福を求めるのであれば、残念なことに私は決して幸福になれない。そもそも自分が人生をかけて知りたいことを追究できるような職についていることはどう考えても幸せに値するし、私自身もそれに異論はない。ただそれでも心の片隅で世の中の役に立たないことへの一種の虚しさを感じるときがあるのも事実である。今では、年をとって、自分をごまかし、正当化するという一種の対処法を身に着けたものの、学生だったときはいわばその2つの間でいろいろ彷徨い、世の中でいうところのボランティアの末端として現場で身を投じるしか、自分の中でバランスをとることができなかったのを思い出す。

今から思えば、もう少しその時間に勉強をしておけば、多少はまともな英文も書けるようになったに違いないし、この論理性のなさもやや改善されたはずだし、世の中の助けといっても、それは私が定義するものではなく、相手が評価することであって、どうにもならないのだが、それでもそうやって彷徨ったことで、無知な自分が得る何かがあったと信じたい。そして自分の職務を踏まえれば、週末に論文の1ページでも書き進めるか、学会発表のパワポの準備をすべきところを、懲りもせず未だについつい彷徨ってしまうのも、おそらくそういった何かを信じたいからなんだと思う。

蛇足だが、言葉に言葉を重ねれば重ねるほど、セルフ・ハンディキャッピングとしか人は思わないだろうなと思ってしまうこの感覚は一体何なんだろうか。それだけ満足な仕事ができていないことに対する自らへの欲求不満が溜まっている証拠だ。もうやめよう。

(蛇足の蛇足。ふと「フィールドワークへの挑戦―“実践”人類学入門」という本を思い出した。当時、私は自らのこの彷徨いをしたためて、文化人類学のレポートとして提出したことがある。そしてそれから約10年後、北大の別の学部の某先生から、ぜひこの本での経験について話してほしいと言われて、えらくびっくりした。そんな本の一部として紹介されているとは全く知らなかったからだ。そしてその経験について話してみたものの、論理的思考の訓練をうけているはずの研究者でありながら、単なる素人の経験談の域を得ない自分に恥じた。一時期、文化人類学の研究者に憧れたことがあるが、ほとほとそのセンスがないことを実感したのだった。)

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