2011年8月25日木曜日

発表予定

以下の学会で発表します。

・日本感情心理学会第19回・日本パーソナリティ心理学会第20回合同大会(京都光華女子大学)
大会準備委員会企画シンポジウム「日本人と心理療法―感情をとりまく遺伝子・脳・身体・文化―」(話題提供)

・日本心理学会第75回大会(日本大学)
ワークショップ「多感覚コミュニケーション機能の発達と文化・言語による特殊化」(話題提供)
ワークショップ「文化比較で知りたいこと・わかること―認知心理学研究における比較文化アプローチの役割―」(指定討論)

これに加えて、筑波大学(8/30-31)と広島修道大学(9/5-8)で集中講義があります。関係者の皆様、何卒よろしくお願いいたします。

2011年8月22日月曜日

彷徨う

先週末、陸前高田に行って、草取りと瓦礫の撤去をしてきた。もちろん私のやったことなんて小指の爪の垢にも満たないことだし、たかだがある地域にほんの一瞬足をおいたところで何もわかりはしないのだが、それでも何もしないよりはわずかでも行って見て感じたことに意義はあったと思う。本音を言えば、時間と体力が許す限り、何度か足を運びたい。そして、遠方なので行くのにお金がかかるというのがネックとはいえ、どう考えても忙しいというのは幻想にすぎない大学生こそ足を運んでくれたらと思う。そのお金で経験を買うという動機で十分だと思う。そういったことに従事することは、上辺では「援助する」立場なのだが、実際そこで得られる経験によっていろいろなことを学ぶことは、結果的に自ら「援助される」ことになる。自分が大学生や院生だったときのことを思い出しても、その点は自信を持って言える。

自分が人生をかけて知りたいことが、結果的に世の中の人々の助けになれば、それほどの幸せはないと思う。その点に究極の幸福を求めるのであれば、残念なことに私は決して幸福になれない。そもそも自分が人生をかけて知りたいことを追究できるような職についていることはどう考えても幸せに値するし、私自身もそれに異論はない。ただそれでも心の片隅で世の中の役に立たないことへの一種の虚しさを感じるときがあるのも事実である。今では、年をとって、自分をごまかし、正当化するという一種の対処法を身に着けたものの、学生だったときはいわばその2つの間でいろいろ彷徨い、世の中でいうところのボランティアの末端として現場で身を投じるしか、自分の中でバランスをとることができなかったのを思い出す。

今から思えば、もう少しその時間に勉強をしておけば、多少はまともな英文も書けるようになったに違いないし、この論理性のなさもやや改善されたはずだし、世の中の助けといっても、それは私が定義するものではなく、相手が評価することであって、どうにもならないのだが、それでもそうやって彷徨ったことで、無知な自分が得る何かがあったと信じたい。そして自分の職務を踏まえれば、週末に論文の1ページでも書き進めるか、学会発表のパワポの準備をすべきところを、懲りもせず未だについつい彷徨ってしまうのも、おそらくそういった何かを信じたいからなんだと思う。

蛇足だが、言葉に言葉を重ねれば重ねるほど、セルフ・ハンディキャッピングとしか人は思わないだろうなと思ってしまうこの感覚は一体何なんだろうか。それだけ満足な仕事ができていないことに対する自らへの欲求不満が溜まっている証拠だ。もうやめよう。

(蛇足の蛇足。ふと「フィールドワークへの挑戦―“実践”人類学入門」という本を思い出した。当時、私は自らのこの彷徨いをしたためて、文化人類学のレポートとして提出したことがある。そしてそれから約10年後、北大の別の学部の某先生から、ぜひこの本での経験について話してほしいと言われて、えらくびっくりした。そんな本の一部として紹介されているとは全く知らなかったからだ。そしてその経験について話してみたものの、論理的思考の訓練をうけているはずの研究者でありながら、単なる素人の経験談の域を得ない自分に恥じた。一時期、文化人類学の研究者に憧れたことがあるが、ほとほとそのセンスがないことを実感したのだった。)

2011年8月11日木曜日

公開講座

今年度の神戸大学文学部の公開講座で1回トークします。ちょっと自分の研究と離れたネタなので、やや不安ではありますが・・・。

平成23年度神戸大学文学部公開講座「日本社会と大災害-古代・中世から3.11大震災まで」

2011年8月10日水曜日

長崎




科学技術に絶対はない。だからこそそのリスクを最小限にするような防御策をとらなければならない。想定外という言葉は言い訳である。そうした言い訳がまかり通るとしたら、それは核の災禍を受けた国であるにもかかわらず、それを完璧に平和利用できると慢心してきたからではないだろうか。さらには、核の災禍を受けた国で生活しようとも、この時期に放映されるドキュメンタリーやドラマは単なるテレビ局のルーチンワークで、結局のところどんな災禍があったかなんて、耳から耳に通り抜けていたからではないだろうか。

東日本大震災以後、原発についてつらつら考えることがあったが、ある時ふと広島と長崎の原爆についてよく知らないことに気づき、猛烈に自分を恥じた。そしてようやく諸々のことが一段落したので、生まれて初めて長崎に行き、原爆資料館に足を運んだ。精神の高ぶりのため、その晩はとても眠りが浅かった。それだけショックだったということだ。

2011年8月3日水曜日

ISRE&AASP

7月末に2つの学会に参加し、発表をしてきました。



まずは、京都ガーデンパレスで開催されたISRE (International Society for Research on Emotion)。後述のAASPと重なってしまった上に、前週の台風に伴う暴風警報で授業が飛んでしまった分を片付けざるをえなく、自分が発表したセッション以外、研究発表をほとんど聴くことができませんでした。それでも阪大の石黒先生のアンドロイドの話を初めて生で聴くことができ、しかも実際に遠隔操作されたアンドロイドとインタラクションできる機会に恵まれ、これはとてもよかったです。ただ、石黒先生の話は、最後、人間としてのミニマムデザインをもったアンドロイドの話になり、これをいとおしそうに抱えたお年寄りの姿が映し出されたのですが、ちょっとこれは皮肉めいたエンディングのようにも思えました。人間としての容姿が大切であるという前提で話を進め、いかに不気味の谷を超えるかという点も含め、人間の体の動きや顔の動かし方の自然さを追求しているにもかかわらず、結局のところ対称性を確保したシンプルなデザインに行きつくというのは、もちろんそれ自体成果の1つですが、ただ、じゃあそれまでの話における執拗なまでの人間らしさの追求とは一体何だったのかという問いがつい浮かんでしまいます。



次は中国・昆明で開催されたAASP (Asian Association of Social Psychology)。実はこの学会に参加するのはかれこれ10年以上ぶりです。今回、The Michael Harris Bond Awardというのを頂くことになりまして、Invited Addressの一部として、昔やったStroopの話から最近の笑顔の消失の話まで、これまでの研究の一部を話す機会に恵まれました。行きの昆明空港からのタクシーでコンタクトレンズをなくすというハプニングもありましたが、アジア人として文化心理学を牽引している、Yingyi Hong、Kaiping Peng、Eunkook Suhらの話を聴くことができ、知人の研究をキャッチアップできたのはよかったです。特にYingyiやCY Chiuらの学生は、香港やシンガポールをバックグランドにしていることもあり、英語ができるので、感心した半面、正直なところ日本の研究者もどんどん発信していかないと、本当勝ち目ないなあという危惧も感じました。無論自戒を込めてですが、たとえ「たかが」と思っても、そこで存在感を示さない限り、どこからも相手にされないんじゃないでしょうかね。

決壊

大抵、海外出張からの帰りは、用務が終了した解放感も手伝って、日頃なかなか手を伸ばすことのできない小説の文庫本をついつい読んでしまう。今回の中国からの帰りは、少し前に買って放置したままにしていた平野啓一郎の「決壊」。ちょうど自宅までの電車の中で前篇を読み、その後、一気に後篇を読んでしまったら、年甲斐もなく夜更かしをしてしまい、今日は猛烈つらい。もちろんそのつらさは、救いようのない読後も手伝っている。やれやれ前期の自転車操業も終わった、さて小説でも読んで一息つこうというときに読む本ではどうもなかったらしい。後編の中頃から事態が急展開し、一部始終が収められたDVDのところはつらくて泣けてきたのだが、その後もゆるやかにそして確実に「決壊」が止まらない展開にはかなり気が滅入った。全く希望が見いだせないというのは、著者なりの結論であり、もしかしたら著者は読者に希望とは何かを思考してほしいと願っているのかもしれない。しかし私が年をとったせいなのか、それとも甘えているのか、そのあたりはよくわからないが、もうちょっと何か希望を残すようなラストにはならなかったのだろうか。

読後、カミュの「異邦人」を2002年頃の日本の社会状況や文脈に落とし込めたらこういった話になるのだろうかという気もしたのだが、決定的に違う点はいくつかある。そのうちの1つは、システムから逸脱することの意味について。「決壊」では、システムからの逸脱をいわばシステムエラーと定義付け、その点に犯罪を外的帰属させ、犯罪を正当化する意味合いが色濃いように思えたのだが、エラー即犯罪というのはやや短絡すぎる気がする。逸脱の結果としての「自由」という側面に、何か希望は見いだせないのだろうか。心理学者の夢想と揶揄されそうだが。もう1つは、幸せについて。幸せのパイにありつけるかどうかは、「決壊」の言葉を借りれば、遺伝と環境によって先天的に決まっていて、最もそうした幸せのパイから遠い者が逸脱者としての道を歩むことになる。で、その幸せとは何なのだろうか。もしかしたら逸脱することによって殺人というなすべきことを手に入れることは幸せなのかもしれないし、言葉に言葉を重ねて、非常に限定的に他者を気持ちよくさせ、その結果得られる関係そのものに幸せを感じるかもしれない。が、「決壊」の後味悪さを忘れて、幸せとは何かをこの本は扱いたいのだという目で見つめ直すと、結局のところそこでの幸せとは極めて日本的な家族の団欒につきる。惨殺される良介の最期の刹那こそ "The champion of the world"であり、そしてそれを失ったものやそういった術をもたないものは「決壊」していくしかないのかもしれない。それ故、言葉に言葉を重ね、その言葉にがんじがらめにされていることを自覚している崇の辿る道は、前編で暗示されている通りなのだが、それがわかっていても、後味が悪いのは変わらない。